越後・新発田藩士の家に生まれた中山安兵衛は「高田の馬場の決闘」で名をあげ、浅野家家臣・堀部弥兵衛家の婿となり、
のちに浅野家浪人・四十七士の一人として「討ち入り」に参加、獅子奮迅の活躍をした。歌舞伎『忠臣蔵』、講談『決闘高田の馬場』で有名。
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寛文10(1670)年5月
- 新発田(新発田城下 外ヶ輪中山邸)で「中山弥次右衛門」の長男、中山安兵衛として誕生!母親は安兵衛が生まれてすぐ、5月12日に亡くなり、母方の祖母に育てられる。
安兵衛は殿さまの血筋!
安兵衛を育てた母方の祖母は「糸姫」といい、初代藩主・溝口秀勝侯の六女。藩主のお姫様をお嫁にもらう中山家は新発田藩の中でも相当の家柄でした。
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天和3(1683)年
- 安兵衛が14歳のとき、父親に・弥次右衛門が浪人の身となる。今でいえばリストラされたようなもの。その後、程なくして弥次右衛門は亡くなってしまう。
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元禄元(1688)年
- 19歳となった安兵衛は、中山家の再興を志し、江戸へ旅立つ。
安兵衛と長徳寺
長徳寺には、「堀部安兵衛手植えの松」や義士堂があります。長徳寺は、中山家の菩提寺であり、幼い頃の安兵衛は長徳寺の境内で遊んだり、寺子屋に通ったりしたのではないでしょうか。19歳の安兵衛は中山家の墓前で手を合わせ、長徳寺に「印篭」と「石台松」を預けて、江戸に旅立ちました。
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元禄3(1690)年
- 牛込町天龍寺(新宿区納戸町)に居住。江戸での安兵衛は、江戸随一といわれた「堀内道場」で剣術を学び、師範代を勤める程の高弟となる。また、堀内道場の同門で、伯父・甥の義を結ぶこととなる菅野六郎左衛門や、高名な儒者となる細井広沢とも親交を深める。
剣豪・堀部安兵衛
赤穂浪士一の剣豪と言われる安兵衛は、堀内道場で剣の腕を磨く以前にも、上野の国(群馬県)で念流という一刀必殺の剣術を学んでいます。
また、父・中山弥次右衛門も新発田藩では相当の剣の使い手として知られていました。安兵衛は剣豪の血を受け継ぎ、また、幼い頃から毎日、弥次右衛門に朝稽古をつけられていました。剣豪のDNAと弛まぬ鍛錬が剣豪・堀部安兵衛を誕生させます。
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元禄7(1694)年2月
- 【高田馬場の決闘】 義伯父の菅野六郎左衛門は2月7日の晩、とある酒宴に招かれる。その席で同輩の村上庄左衛門と口論となる。仲裁もあり、その場は収まるが、後日、村上庄左衛門から果し状が届く。そして2月11日、安兵衛も加わり高田馬場の決闘が繰り広げられる。(詳しくはこちら「高田馬場の決闘」へ)
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元禄7(1694)年6月
- 【安兵衛・結婚! 堀部安兵衛誕生】 高田馬場での決闘で江戸中にその名が知れわたった安兵衛のもとに、赤穂藩士・堀部弥兵衛が養子に迎えたいと訪ねてくる。
中山家再興を志す安兵衛はこの申し出を断るものの、堀部弥兵衛は諦めることなく何度も安兵衛を訪ね、ついには「中山姓のままで構わないから養子となってほしい」と申し出る。この言葉に義を感じた安兵衛は堀部弥兵衛の娘・ほりと契りを結び、堀部家を継ぐことなる。
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元禄11(1698)年
- 義父・堀部弥兵衛の隠居にともない、安兵衛が浅野家に出仕。江戸詰の馬回り役200石となる。
浅野内匠頭の使者に
安兵衛の実父・中山弥次右衛門の新発田藩で馬回り役200石。安兵衛は図らずも、実の父と同じ碌の役回りとなりました。安兵衛は、出仕した年の年末に、赤穂藩主・浅野内匠頭の使者として、尾張藩の姫の葬儀に出向く大役を仰せつかています。安兵衛は赤穂藩の江戸藩邸でも重要な人物となっていきます。
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元禄14(1701)年3月14日
- 浅野内匠頭が江戸城「松の大廊下」で吉良上野介に斬りかかる。吉良上野介は、気を失って倒れるも、討ち果たすには至らなかった。
江戸城内で刀を抜き、斬りかかった浅野内匠頭は、陸奥一関田村藩の江戸藩邸邸に移され、即日切腹が命じられる。赤穂藩もお取りつぶしとなり、安兵衛は再び浪人となる。
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元禄15(1702)年12月14日
- 大石内蔵助・堀部安兵衛をはじめとする四十七士が、吉良上野介の屋敷に討ち入る。安兵衛も大太刀をもって奮戦。四十七士は吉良上野介を討ち取り、泉岳寺にある浅野内匠頭の墓前に仇討ちを報告。
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元禄16(1703)年2月4日
- 四十七士に幕府より切腹が命じられる。
堀部安兵衛、享年34歳
浅野内匠頭の墓所がある泉岳寺に葬られる。