蕗谷虹児記念館
金襴緞子の帯しめながら・・・童謡『花嫁人形』の詩は虹児25歳の絶唱です。少年時代から画家を志し、樺太放浪のあと、竹久夢二の推薦で「少女画報」にカット絵を描いてデビュー、23歳で人気挿絵画家となり、時代の寵児として詩画集9冊を出版。27歳でパリに渡り、春・秋のサロンに3年連続入選をはたし、一流画廊での個展を成功させます。そして昭和4年に帰国、モダンな画風で一世を風靡しました。童画や絵本の分野でも活躍し、晩年には新作個展を5回開催、『花嫁』は70歳の作品です。
新発田が生んだ天才画家蕗谷虹児の記念館は、純粋無垢な彼の詩魂につつまれ心をいやされる異次元の世界と評判です。
蔵春閣
「蔵春閣(ぞうしゅんかく)」は1912年(明治45年)、新発田出身の大実業家である大倉喜八郎翁によって、東京の隅田川沿いにあった向島別邸内に建てられた迎賓館で、政財界の大物や海外の賓客がもてなされていました。
2017年(平成29年)、(公財)大倉文化財団から新発田市へ寄贈が決定し、2020年(令和2年)から、東公園内での移築工事が進められ、2023年(令和5年)4月29日に施設を公開。
大倉喜八郎(おおくら きはちろう)氏は、1837年(天保8年)9月24日、現在の新潟県新発田市に生まれました。1854年(安政元年)17歳で江戸に出た喜八郎は、その才を遺憾なく発揮し、商人として成功をおさめます。1873年(明治6年)大倉組商会を設立し、ヨーロッパをはじめ世界各国との直貿易に進出。わが国における世界貿易の先駆けとなりました。また、上水道の建設や大倉製糸場新発田工場の操業など、郷土の発展にも貢献しています。
先の大戦で焼失した明治天皇の皇居「明治宮殿」の造営に当たったのが、大倉土木(現・大成建設)です。蔵春閣はその宮殿を摸したもので、当時の様式を残す大変貴重な建物です。
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新発田城
新発田城は、別名「あやめ城」とも呼ばれ、初代新発田藩主溝口秀勝(みぞぐちひでかつ)侯が慶長3年(1598年)に築城し、3代宣直(のぶなお)侯のときに完成しました。
新発田城は一般に多くある山城とちがって、政治・経済の中心として交通の便利さを考え、平地につくった平城です。石垣がすき間なくかみ合うようにきちんと積まれる「切込はぎ」と呼ばれる美観を重視した技法でつくられ、白と黒が美しい海鼠(なまこ)壁で仕上げられています。 春の桜の季節、真冬の雪をすっぽりかぶった様子、四季折々の風情があります。
城の表門前に、すっと立っているのが堀部安兵衛の像。赤穂義士の討ち入りで中心的な役割を果たした安兵衛。像の顔は、しっかりと江戸を見つめています。新発田城はかつて本丸、二の丸、三の丸からなり、堀や石垣に囲まれ、新発田川の水を巡らせた平城で、11棟の櫓と5棟の門が並び壮観な景観を呈していました。中でも、天守閣の代わりを果たしていたのが三階櫓です。3匹の鯱を配するという独特の櫓で、全国にも例がない大変珍しいものです。平成16年には、この三階櫓、辰巳櫓が復元されました。
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白壁兵舎広報史料館
1874年(明治7年)に建設された陸上自衛隊新発田駐屯地内の通称「白壁兵舎」が、5月11日から広報史料館として生まれ変わる。館内には新発田城の史料をはじめ、日清・日露戦争から終戦までの郷土部隊の遺品や写真資料、陸上自衛隊の災害派遣、国際貢献活動などが展示されている。
しばた台輪
しばた台輪の起源は享保11年(1726年)に遡ることができます。時の新発田藩主6代溝口直治公が、諏訪神社祭礼にあたり「賑わい」として「飾り人形の屋台を出すように」とのおふれを出されたことが始まりといわれています。本体は長さ約五メートル、高さ約四メートル、幅約三メートルの御殿風二階造りで、樫や欅、桐などを主材料とした三輪の構造となっています。「見送り」(二階後部)「勾欄」(手摺)などには彫刻が施され、朱漆塗り、金箔仕上げと絢爛豪華に装飾されており、二階には飾り人形をしつらえています。現存する六台は各町内で保存されており「上町台輪」、「四ノ町台輪」、「両町台輪」、「下町台輪」、「三ノ町台輪」は格納庫の外からとなりますが通年観覧することができます。
足軽長屋(国重要文化財)
清水園の真ん前にあり、今に残る新発田藩当時のままの姿の足軽が居住した八軒長屋は、歴史的にも貴重な存在です。木造茅葺きの質素な建物は、当時の足軽たちの暮らしぶりを感じさせてくれます。
清水園(国指定名勝)
清水園は、溝口家の下屋敷として造られ、清水谷御殿とも呼ばれていたそうです。広い庭園は、広さが15,200平方メートル、幕府の庭方の県宗智を招き造られ、近江八景をとり入れた純京都風で、中央に草書体の「水」の字をかたどった大泉池のある回遊式庭園です。池の水に、季節ごとの樹木の色がはえて、何ともいえぬ風情です。
新発田藩の歴代藩主は、茶道に力を入れました。現在も清水園や五十公野御茶屋などでお茶会が開催されています。
長徳寺
1585年に創建された浄土真宗(真宗大谷派)の寺院。忠臣蔵、赤穂四十七士の一人、堀部安兵衛の生家、中山家の菩提寺。境内には、「義士堂」・「堀部安兵衛手植えの松」(二代目)・「中山家の墓所」がある。四十七士によって「吉良邸討ち入り」が行われた12月14日には、毎年、境内で義士祭が執り行われている。
諏訪神社
新発田総鎮守であり、「おすわさま」の愛称で親しまれている諏訪神社の初詣は、毎年3万人の参拝者が訪れます。五穀豊穣・無病息災・学業成就・厄除け・縁結び・安産の御利益があるといわれています。
この神社の由緒は、大化4年(648)現在の聖籠町諏訪山に鎮座したのが始まりです。その後、宝暦6年(1756)に七代藩主溝口直温候が現在の地に社殿を建立しました。今の社殿は平成16年に再建されたものです。勇壮な台輪で知られる「新発田祭り」は諏訪神社の祭礼です。
宝光寺
宝光寺は、新発田藩溝口家の菩提寺で、曹洞宗に属する禅寺です。総門には「城東法窟(じょうとうのほうくつ)」という額が掲げられており、当山の建立された目的が示されています。宝光寺の開基は、新発田藩祖溝口秀勝公です。その後、江戸時代は歴代藩主に外護されてまいりました。